2015年11月行報告

皆様

はや、師走も15日となり、今年も過ぎ去ろうとしています。
今年も、快苦さまざまな出会いがありました。

「カオス」の学びと共に、快苦を超えて少しづつ実相を観る心を育んでいただいているように想っています。

皆様におかれましては、いかがな年でしたか!

以下、行報告を致します。

2015年
11月行報告、№ 64

 止観シート      36枚
         ウイズダム       0枚

 祈り黙想禅定     24日
合計時間       12時間10分
一日30分以上
今月は6日抜けました。

 霊的読書
〇 G誌の先生のご文章中心です。巻頭言、時の羅針盤、「魂の学」序説を月に一度、7ヵ月かけて7回読んでいます。
今月は、7回読めました。
〇 他に、ご著書から2度、霊的読書をしました。

★ 真我を解放する行
「自信家」を超えるための行から
譲与の行     (3ヶ月目)です。
「被害者」を超えるための行から
和顔愛語の行   (3ヶ月目)です。

書写行     0回
映像反芻    1回
(映像反芻を補うために京都会館ビデオ会には毎回出席しています)

以上です。

バッハ作曲 シャコンヌ  Valentina Lisitsa

コメント

その1 
 止観シート行 3,000枚こえました。

1995年に止観シート行が始まってから、先月、11月でやっと3000枚を超えました。
この5年に集中したとは言え、20年もかかりました。

これまでの止観シート行3000枚後智慧してみると、下記に述べます2つの傾向に対して、集中して枚数も多く、自らが混乱し、快苦の激震におぼれて心の安らぎを失うことになっていました。

その2つの傾向、事態とは以下のとうりです。
1 相手さまの未熟・煩悩を問題視している。
2 自らの待遇を問題視している。

この2つ事態に出会い、我を忘れていると、強烈に自己正当化が働き、一番大切な自分の内に向かう「まなざし」が消滅してしまいます。
それで、相手の煩悩に対応するための「葛藤となってしまい、それは相手の煩悩と自分の煩悩の底なしの「葛藤」となってしまいます。

これは言葉として発しなくても、想っているだけで、底なしの「葛藤」となり、心の安らぎが失われてしまうのは皆様ご存知のとうりです。

例え、大声で怒鳴ったり、わめき散ちらして、又は立場や役割に威厳を付けて、「正論」で相手を従わせたとしても、闇に向かうだけです。
決して闇から浮かび上がることはありません。何十年たっても、何百年たっても、自らが光に転換しない限りその場に闇は続きます。

これは、自分の煩悩と自分の内なる善我との「葛藤」、すなわち先生の言われる、光へと向かう悟りの9段階の第2段階である「偽我・善我葛藤」とはまったくの別のものです。

この先、簡単にこの二つの事態にはまらないように、巻き込まれないように文章化して、この秋から、これからの「2つの先智慧」としています。

その 2 先智慧 
「相手さまの未熟、煩悩を問わず」

これまで、GLAの場、その他の場で、相手さまの未熟、煩悩の受発色を心の中で、問題視し、あれこれ詮索(せんさく)していることが非常に多かったのです。

その煩悩回路としては、不満とか批判とか拒絶、またあるときは、そんな相手さまを見下げて歪曲、優位、欲得になっています。
この事態を自覚するたびに浄化、転換への止観シートを書きますから、この傾向を浄化する枚数は大変な枚数となっていました。

これは、口に出せば、愛のない正論にすぎません。
これは闇ですから、相手さまに伝われば、相手さまが悟りの9段階の第4段階目である「善我確立」を超えておられない限り、相手さまからは煩悩の受発色が帰ってくることになり、更に不快な想いをすることになります。
これは「光の内外エネルギー交流」ではなく「闇の内外エネルギー交流」ですから当然の帰着です。

このパターンは人生で膨大な数の受発色となり、入会以来の40年を振り返っても物凄い無益のエネルギーの浪費となっています。
これでは、神さまからエネルギーを頂いていても疲れ果ててしまいます。

自分の受発色を止観シート化すれば、些細なことでも煩悩まみれでであることは明白です。

これは止観シート行を深めておられる皆様にも明快な事実でしょう。

その私が、人さまの未熟、煩悩をあれこれ申し上げられる訳がありませんよね!
意味もありません。

G誌10月号、「実践論Ⅳ」一章にある、「他人のせい」は「原因」を手放す生き方、を生きているだけです。
「魂の学」を学んでいる意味もなく、三章にある、事態の主導権を取り戻す生き方、などは夢のまた夢となります。

相手さまが如何に未熟で煩悩深くとも、あるがままは「カオス」であり、未来の光の存在であると納得して、「相手さまの未熟、煩悩を問わず」を先智慧としました。

この先智慧、まだ身についている訳ではありませんが、凄く心が平和になり安らいでいることが多くなりました。

その 3 先智慧
「自らの待遇を問わず」

何十年も前に、先生が「私たちは自らの待遇に凄く敏感ですよね!」とおっしゃっていました。
この「待遇」とは物質的なものも精神的なものも含みます。

私たちは自らの待遇に凄くこだわり、一喜一憂して心が安らぐことはありません。
友人達との些細な会話の中での自分の評価、またターミナル内での自分の評価など・・・・・。

時には、先生にかかわって頂いたかどうかとか・・・・・、伝研生になったとか、伝研生になれなかったとか・・・・。

皆様この「待遇」問題をいかが観察されていますか!
広く見れば、世間の見る目。
狭く見れば、1対1の相手の見る目。

・上から目線で見られてはいないか。苦!
・さげすまされているのではないかとか。苦!
・良く想われているのではないかとか。快!
無自覚でも敏感に快苦の振動を心に起こし、安らぎを失っています。

この待遇の良し悪しは、自らの存在をも左右すると、誤解して感じていますから、一大事であり、ターミナルの中でも深刻な影響を及ぼしています。

私も、周りからの待遇が良ければ有頂天、悪ければ深刻に自己否定・沈鬱と落ち込み、何枚もの止観シートで浄化・転換する破目になりました。

「待遇」は、無自覚であっても常にまわりからのまなざしに「依存」している現実を意味していますよね!。
* 周りのまなざしは、無条件に怖い!こともあり。苦!
* 周りのまなざしは、名声(快)を貪るには絶好の舞台!のときもあります。快!

皆様ご存知のとうり、私たちは、周りのまなざしによって生かされている訳ではありませんよね。
神様により絶対的に、永遠に生かされていますよね。

これを深く自覚するには自己確立への行と時が必要ですが、他方、無自覚に周りのまなざしに「依存」している私を、その「依存」からハズシテいくことはできます。

自分の待遇を問題視するが故に巻き込まれる悲劇。

ここから自由になるために、「自らの待遇を問わず」を第二の先智慧としました。

これを実践するには少々の勇気が必要です。
これまでの人生で、良い評価を得ようと生きてきた価値観の逆を生きることになりますから。

自らへの快苦の評価を問わず、ただひたすらに本心、真我(魂)の生き方を求める。
そのようにありたいと想っています。

今も、日常で、「あれ!」と想うことがあり、気が付けば無自覚に自らの待遇を問題視していることがあります。
すぐ、「自らの待遇を問わず」を想い出しますから大事には至らず、「川の心」の如く流せます。

これら二つの先智慧、日常的に絶えず唱え、潜在意識へ刻印しています。
しかし、今のままの煩悩の私では、独りよがりの指針になりかねません。
それを避けるためにも、「祈りのみち」にそった、止観シート行が不可欠です。
まだ、しっかりと常に「本心」を実感できている訳ではありませんから!

皆様におかれましても、今年の後智慧から来年への先智慧を模索されているに違いありません。

今年も、私の行報告にご同伴いただき、有り難うございました。
新たな年も、「魂の学」のみちを、共に歩めますことを感謝しています。

ありがとうございました!

2015年、師走 15日

GLA   一会員