プロフィール

GLA  一会員のプロフィール

1940年10月 東京都生まれ。
1941年12月 第二次世界大戦勃発
1945年早春  愛知県拳母(現豊田市)の郊外に移転。 家の前を街道が通り、その向こうには緑鮮やかな水田が広がり右手には鎮守の森があった。

 

昼の空襲時には子供たちは近所の空き地にある防空壕に入れさせられた。 大人は外で名古屋大空襲を遠望していた。 時には、何の前触れもなく米軍の戦闘機が稲穂すれすれまで舞い降り、鎮守の森のところで急上昇して去っていくこともあったが、幼少の私にはのどかな田園風景であった。

夜の空襲時はB29の大編隊が天地を包む大爆音を轟かせて名古屋方面に向かっていく。 スーパーソニックが夜空も大地も支配し、我が家の窓がビリビリと振動していた。
日本軍は下からサーチライトでB29の機影を捉えているが、対空砲火が1万メートルの高空に届かず、そのまま放物線を描いて落下していくのを見ていた。
今も、遠くで小さく鳴る対空砲の発射音が「パンパンパン・・・ パンパンパンパン・・・・・」と耳に残っている。

 

 

 

                                                     大空襲の後、住処を失った方々

 

1945年初夏 京都市山科区に移り終戦(1945年8月)を体験した。

 

モーツァルト作曲 ピアノ協奏曲 23番 第2楽章
人間の悲苦、人生の悲苦が万感の想いと共に迫ってまいります。

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https://youtu.be/j8e0fBlvEMQ

 

日本軍兵士の戦死者、国内で空襲などでお亡くなりになった方々は、合計300万人と言われています。

またその当時、日本の領土であった朝鮮半島、台湾、南太平洋諸島、満州を含む中国各地から舞鶴港、博多港へ引き上げて来られた引揚者の方々は600万人に達しました。
その過程で、言葉に表せないほどの大変な数々の悲劇が起きたのは言うまでもありません。

 

ある朝、山科の静寂を破り突然爆雷のような大轟音が東方から響き渡りはじめた。

それは、大津方面から逢坂山の峠を越えて山科盆地に下ってきた、ジープ、戦車、砲台車、軍用車両を何百台も連ねた米軍の車列であって、大轟音のなか何時間もかけ京都薬科大学の南側の三条通り、旧国道1号線を京都市内へと進駐していった。

それは、狂乱のアメリカ文化の始まりだった。その時が歴史の分岐点であったと、後で感じた。

この社会の質が変わってしまったという感覚は、4,5歳の私には鮮明でした。

何か社会にあった精神的なものが吹っ飛んでしまった、そしていい加減なものになってしまった。
そんな感覚でした。

2020年から始まった、武漢コロナウイルスの事態は、経済破綻を伴って歴史の次の分岐点になる。そのように予見しています。

高橋佳子先生がおっしゃるとうり、2020年は世界が光に向かえるか闇に向かうか、この先何十万年もの世界史を左右する巨大分岐点になろうと想っています。

 

1946年 山科の仏教系の寺西幼稚園に入園。
京都市左京区聖護院に移転につき、丸太町通りにあるキリスト教会付属の同朋幼稚園に転園した。
1947年 第二錦林小学校(現近衛中学校)に入学。 京都大学・旧第三高等学校の南側にある。
1948年 新洞小学校に転校した。(第二錦林小学校が廃校になったため)
1949年 京都市南区西九条に転居に伴い、九条弘道小学校に転校。 九条中学校、京都市立洛陽高等学校・普通科に学んだ。

その間、卒園した丸太町通にあるキリスト教会の日曜学校に中学時代から通い始めた。
私の移転に伴い、その場所、場所にある日本基督教団の教会に大学2年生まで通った。

1959年 岡山大学農学部に入学、岡山大学交響楽団にヴァイオリン奏者として所属する。全学部から音楽好きが多人数集まった最高の部活。各地への演奏旅行など数々のエピソードが生まれた。

後に1987年、第2回全日本大学オーケストラコンクールで第1位受賞となった。

                                 
 岡山大学交響楽団  常任指揮者は保科洋氏

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https://youtu.be/XGjbLZuH8mk

 

今も付き合っている10人程の岡山大学交響楽団の仲間の中には、元大学教授が3名、皇居で勲章を授与された者2名、元裁判官が1名いる。また、秋田市に巨大な精神病院・秋田東病院を創設した元チェロ奏者もいる。
今も岡山に足を向けて寝ることなど、決してできない!

 

1963年 岡山大学を卒業、高校2年生の秋に移住を決めていたとうり、ブラジルへ渡航した。 二度と日本へ帰国することはないと決心していた。

 ⬆️これはアルゼンチナ丸ではありません。パナマ運河を通過中の豪華客船

移民船アルゼンチナ丸に乗船し40日かけ、ロスアンジェルス港、パナマ運河、キュラサウ島(オランダ領)、カラカス市・ベネゼラ、ベレン市・ブラジルを経由してサントスへ。

東山(Tozan)グループの東山銀行(Banco Tozan)サンパウロ本店に入行した。 同期は、慶応4名、青山2名、東京農大1名、上智1名、そして私の9名でした。この内の7名が銀行に入行した。

東山グループは三菱の創始者岩崎家の個人資産で戦前は世界各地に農園などを所有していた。 当時のブラジル東山(Tozan)グループの総支配人は山本喜誉司氏。

山本氏は東京帝国大学農学部出身者でコーヒーを害虫から守るためアフリカのアンゴラから益虫を導入しブラジルコーヒ農業を救い、第2次世界大戦以前にブラジル政府から勲章を授与されている。

現在でも、サンパウロ州カンピーナス市近郊にあるFazenda  Tozan(東山農場)は開拓時代を偲ぶ観光スポットとしてブラジルでは有名な農園。邦画の撮影現場として舞台となったことがある。

Fazenda  Tozan       ⬅ サンパウロ州カンピーナス市近郊 東山農場に飛べます。

 

1966年 東山銀行を退社し、ブラジル社会に溶け込むために小さなブラジル企業に転職した。 日系企業にいる限り、ポルトガル語の習得、現地の生活習慣、現地社会での人脈の構築には限度があった。言葉の習得と共に、より大きい会社へと転職を重ねた。

1970年 米系の巨大会社シンガーミシン(Singer do Brasil)の事務機販売部門に転職。コンピューター・会計機・電卓などを扱っていた。 その部門は数百人程の社員数でしたが、日本人は私一人、他のセクションに日系2世の女性が一人いただけでした。当時のブラジル・シンガーミシン(Singer do Brasil) は工場もあって全体では数千人を超えていました。

クリスマスにはミシン販売部門を含めて、サンパウロ市内の巨大なホールを借り、数百人規模のダンスパーティーが恒例となっていました。 楽団生演奏付きの。

(キリスト教社会には忘年会はありません)

 

 

異文化の中に溶け込み、数々の貴重な体験をしました。ブラジル人は懐が深く暖かです。
ブラジル人と南米の大地に、心からの感謝しかありません!


ドンドン日本語を忘れ、ブラジルナイズされて行く私を自覚していました。

 

1972年 ある日突然、京都の実家の母親から妹の件で悲しく重い手紙が届きました。

GLAに入会するまで、あと3年です。・・・

この続きの1部は、2019年4月行報告コメント内に記しました。よろしければご覧ください。
なお、妹は同年9月に第4期に旅立ちました。

あの手紙から、47年の歳月が流れていました。
このいきさつは、2019年9月行報告のコメントに記しました。
よろしければご覧ください。

 

https://youtu.be/ydKwY0tqAXQ

2018年 5月5日

光輝く魂文明の夜明け!

GLA  一会員

 

続きます。